アウシュビッツ強制収容所と原爆ドームに行ってみて思ったことを書く

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最初に断っておきます。私は特別戦争への意識が高い方ではありません。ついでに言えば、歴史に疎く知識は浅い人間です。
そんな私が、昨年広島・長崎・ポーランド(アウシュビッツ強制収容所)へ足を運びました。改めて振り返ってみると、たまたまこの三ヶ所になったというだけで、意図的な選択ではありません。本当にたまたま、旅行で行った先がこの3箇所になっただけでした。f:id:what7:20190426180928j:image

5月にポーランドハンガリー、6月に長崎、そして10月に広島へ行きました。

昨年の3月。今年のGWはどこへ出かけようかと思案していたところ、一緒に行く相手からアウシュビッツに行きたいと言われました。前々から訪ねたい場所ではありましたが、「さあ!休みだ!」というテンションで行く場所ではなかったためか先延ばしにしてしまっていました。
今回を逃すと行く機会もなかなか無いかもしれないと感じ、ポーランドへの航空券を手にしました。

アウシュビッツ強制収容所は、ワルシャワからさらにクラクフという第二都市へ移動し、クラクフからバスで90分ほど。オシフィエンチムという街にあります。オフィシエンチムはポーランド語表記であり、アウシュビッツという名前はドイツ語で付けられた名前ということになります。

アウシュビッツ強制収容所(以下アウシュビッツ)は、のどかな田舎町にあります。入ってみると芝生はキラキラ光っており、通路は広く、緑も多い。一見すると拷問や強制労働、虐殺などが行われた場所だとは想像もつきませんが、間違いなく、とてつもなく重い何かを感じることができました。
この感じには身に覚えがあります。中学校の修学旅行、広島の原爆ドームの近くで感じた重みと似ていました。その地で多くの命が犠牲になり、人々の魂と祈りがお腹の奥にのしかかって来る、あの感じです。私は霊感というか、スピリチュアル的な感覚は無いに等しいですが、これだけは確かに感じることができました。

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アウシュビッツの中の案内は日本人のガイドにお願いしてありました。日本人で唯一の公認ガイドであり、日本人にしかガイドをしていないのだそうです。50代ぐらいの、背筋がシャンと伸びた紳士的な方でした。穏やかにお話しされていましたが、そこには確かな説得力と、訴えかけるような語尾を感じました。
日本人専属ということもあり、日本の戦争教育や政治的な背景を交えながら、考えさせるガイドツアーでした。
中でも印象的だったのは、日本の教育は被害者意識が強すぎるというお話。日本の義務教育で習う範囲において、第2次世界大戦の日本に関しては、原爆について傾倒しすぎていると。ドイツと同盟を組んでいたこともあり、ホロコーストについて一端を担った意識が足りないと。そうおっしゃっていました。
私は目から鱗が落ちました。確かに、そうかもしれない。一端を担ったは言いすぎかもしれませんが、日本が行った加害については触れられてもその慰霊碑や遺跡について重要視されていない風潮が強い気がします。ここで私は歴史に疎いことにひどく後悔をし始めます。

一方、ドイツ人はアウシュビッツに訪れる人数が多いそうです。土地的に近いということも勿論ありますが、教育として過ちは繰り返してはならないと強く教えられているそうです。
その視点が私には足りていなかったと強い衝撃を受けました。それから、アウシュビッツに行って驚いたことがもう一つあります。それは、アドルフ・ヒトラーという存在が殆ど出てこなかったこと。覚えている限り、写真が1,2枚あった程度だったと思います。あくまでホロコーストは史実であり、巨悪の成したことではないということを感じ取ることができました。そういう体制にしてしまったドイツ、ひいては支持をした国民、止められなかった国民、指示に従った国民の過ちだと、訴えかけてくるように感じました。仕向けたのがたまたまヒトラーという存在だっただけで、従ってしまった人々に責任があると。

山積みになった毒ガスの空き容器、靴、服、障害者用の義足や松葉杖、様々なものが展示してあります。
犠牲になった一人ひとりの写真が、壁一面に貼ってあり、心が押しつぶされる思いでした。

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アウシュビッツは、冬は雪が降るほどの寒い土地です。そんな中で移動させられ、労働させられ、殺される痛みは計り知れません。その痛みを少しでも学ぶため、訪れたひとの中には、冬にもう一度来る方もいらっしゃるとお聞きしました。

宿に帰ってから、一日だけフリーの日を利用してハンガリーブダペストへ向かうことにしました。
ここは温泉やフォアグラで有名ですが、アウシュビッツと同じようにユダヤ人が多く犠牲になった場所でもあります。なるべく多くの場所へ足を向け、祈りを捧げるために、私はブダペストへ向かいました。

ブダペストにはドナウ川が流れており、その川辺に鉄でできた靴のオブジェが並んだ場所があります。ユダヤ人が川に向かって立ち、銃殺された場所なのです。靴のオブジェは大きい靴から小さい靴、作業靴からパンプスまでさまざま。見てみると、ときどきランプが入った靴があります。石やランプを供えるのは、ユダヤ教の祈りを捧げる方法なのだとアウシュビッツで教えてもらっていました。f:id:what7:20190426181022j:image

ひどく重い旅でした。
美味しいご飯や風景に癒されながらも、深い悲しみを私に残す旅となりました。

帰国してから、長崎と広島に向かいます。長崎は九州一周する道すがら、広島は大久野島へ行く帰りがけに。
広島は、資料館がリニューアルしてから初めて行ったので、かなり様変わりしたなという印象でした。おどろおどろしいジオラマは無くなり、プロジェクションマッピングなど新しい技術を使った展示が新鮮でした。変わったな、と感じたのは原爆への記述の仕方でした。最近外国人が訪れることが多くなったようですから、原爆の悲惨さというよりも、原子力の使い方や利用の幅、これからどう向き合っていくべきかが中心に書かれた解説が目立ったように感じます。

話は変わりますが、1階のロビーに、メッセージノートが置いてありました。訪れた人々が自由に記載していいノートです。ふとそのページをめくると、英語や日本語、フランス語などで書かれたメッセージが並んでいます。修学旅行や課外授業で訪れただろう小中学生のメッセージもちらほらあり、その内容に私は首を傾げました。

「戦争はやってはいけないと思いました」
「原爆のひどさを知って、戦争がなくなって平和であってほしいと思いました」

ここからからは完全に持論なのですが、私は戦争・核兵器原子力(ここでは平和的利用を指す)に関しては完全に切り離して議論すべきと考えます。
この3つは密接に関わってはいますが、どれかひとつなくなったところであとふたつが無くなるわけではありません。
もちろん、原爆の史実と事実は明らかであり、凄惨さを後世に残していく必要があると考えていますが、あくまで私自身の原子力への考えは「原子力は戦力として利用してはならない」ということのみのため、核兵器原子力利用についてはしっかり分けて論じるべきだと強く感じています。
加えて、核兵器をこの世から無くしても戦争はなくならないのです。核兵器が直接的な原因ではないことが多いですから。抑止力として保有するものなのです。
そこをごちゃごちゃにしている日本の戦争教育に関して懐疑的なのが正直な気持ちです。

そこは切り離して、きちんと後世に伝えてゆくことと論じるべき事柄とを分けられたら、もっとハッピーなのではないかなと思っています。

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と、非常に長く綴ってきましたが、改めてポーランドハンガリー、広島、長崎を短期間で訪れることができたのはとてもラッキーだったと思っています。まだ熱が冷めないうちに、他の観点の遺産を目にする事ができ、様々なことをいろんな角度から考えられたのはいい機会でした。
あまりこういった思想というか、価値観的なことは公にすべきではない、特に戦争や兵器に関してはかなりセンシティブな分野のため、リスキーな選択です。ですが、こういう考え方もあるんだよということを残しておくことも一つ意義があることだと信じて、公開しようと思います。

あとひとつ。私は特定の政治的な思想を持って戦争や兵器に関して発言していません。純粋に、日本における戦争教育のあり方について考えがありました。それ以上でもそれ以下でもないとここに明言します。