8年前の震災の日に寄せて

8年前の震災の日に寄せて

今でも覚えている。
高校の卒業式を終え、翌日に卒業生の有志で球技大会を開いた。
そこでお世話になった先生の一人が、結婚すると発表したのでみんなで祝福した。

その球技大会の翌日のことだ。

卒業式直前に横浜へ引っ越した私は、その日 家に一人でいた。
荷物の整理をゆっくりしながら、4月から始まる大学生活に胸を躍らせていた。

お昼を終えて少し経った頃。
パソコンでネットサーフィンをしていた気がする。
大きい揺れを感じた。
Skypeで、高校の同級生と連絡を取り合い、テレビをつけたときには鳥肌がたった。

大きい揺れと津波、怯えることしか出来なかった。
震源地に近い東北に住んでいる祖母と母と犬のことが気になり、電話を鳴らし続けるも通じず。
諦めてメールを打っている最中に、奇跡的に母から電話があり安心したのを今でも覚えている。
母からの電話は想像以上に呑気なもので、
オール電化だから停電しちゃって困っているの。寒いし、水も出ない。おばあちゃんとあったかいハリー(犬の名前)の取り合いよ」
というものだった。
とりあえず暗くなる前にカセットコンロの用意と灯油の補充はしておいてね、と伝えて電話を切った。

父とも連絡は取れなかったものの、管理職だしきっと部下との連絡でしばらくは帰ってこないだろうと思った。
結局父が帰ってきたのは深夜1時過ぎで、それまで私は不安を紛らわすために同級生数名とSkypeで話していた。
(私がわがままを言って付き合ってもらったのを覚えている。みんなよく付き合ってくれていたなと思う)

当時大学生だった姉は、長期休暇を利用して海外にボランティアに行っていて、帰国したのは地震から2週間ほど経過したあとだった。
近くの駅まで父と車で迎えに行ったが、帰り道での姉の発言は支離滅裂だった。
「水道からヒ素が出るってほんと?」
「あっち(バングラデシュ)では雨が降ると日本からの放射能が混じった雨だから逃げろって大騒ぎ」
など、科学的根拠もない情報が錯綜していたようだった。ただ、日本の地震のことについては海外でも報じられていたようだ。
地震が少し落ち着き、計画停電が始まるか否かといった状況での帰国だったため、姉はあのACのCM地獄は知らないでいた。
ポポポーン、は今後も姉にとってはわからないネタだろう。

自分のことで大きな変化といえば、大学の入学式が早々に中止になることが決まり、授業開始もゴールデンウィーク明けになることが決定した。
思いがけず1ヶ月半休みになったものの、することもなく、ボランティアに行くにも応募は殺到していたようだった。
祖母と母のところに行こうにも新幹線は止まっていたし、道路状況も壊滅的であった。

しかたなく、私はバイト先を探し始めた。
大学の授業の日程がわかってからにしようと思っていたのを前倒してバイトを始め、計画停電で営業時間が縮小する中で見つけたバイト先で働き始め、最初に貰ったバイト代を募金に充てた。
ゴールデンウィーク明けに授業は始まったものの、1回目の授業が始まらないうちに抽選科目を選択しなければならず、1回目の授業がすべて終わる頃には授業をすべて確定させなければならなかった。すごく戸惑ったことは覚えている。

中止になった入学式は翌年に改めて行われたが、出席しなかった。予定が合わなかったこともあるが、下級生の入学式のあとに行われるという違和感が拭えきれなかったのが大きな理由である。

まわりのひとが亡くなったり、被害に遭ったりということは直接的に関係はしていないけれど、東日本大震災は、少なからず私の心にも大きな爪痕を残している。

------------------------
8年も前のことなのに、書き出してみるといろんなことを覚えている。
あのとき、どこにいて、何をしていたか。
友人や同僚と話すこともあるが、誰もが覚えている。
それほど、大きな出来事だったということだ。

それぞれ想うことはたくさんあるだろう。
色々なことが終わり、様々なことが始まった日である。

私は、今日という今日を大切に過ごすことからまた、始めたいと思う。